ありきたりな恋の結末


 新聞社の電灯は頼りなげだ。明るくなったかと思えば、消えるんじゃないかと思うほどに暗くもなる。金が無いので上等の電球を買えないのだ。
 煌びやかな光に溢れていた屋敷を思い出せば、法介の表情には苦笑が浮かぶ。
何をこんなにも一生懸命やっているのだろうか。ただ、金持ちの坊ちゃんの戯れかもしれないのに。
 そんなことを感じつつも、法介の目は文字を追うことを止めない。
「あんた、熱心ねぇ〜。」
 恐らく呆れを含んだ言葉が茜の口から発せられた。それも、片耳で聞き流す。夜食の中華そばを啜る時間でさえ惜しい気がして、追われるように資料を貪った。
法介の机に積まれているのは此処半年あまりに出版された、週刊誌と新聞。そこから、これぞと思う記事を手帳へと書き写していく。
「ねぇねぇ、何調べてるの?」
 アンタも仕事しろよ。と法介は心で呟いた。
さっきから茜がやっていることと言えば、机に広げられた硝子の細長い器に奇妙な液体を混ぜたり、粉をふりかけたりしているだけ。
 とても記事を書いているようには見えない。けれど、そんな言葉を口にすれば何倍になって返ってくるのか考えただけで恐ろしい。ウーマンリブってなんなんだと法介は呻いた。
「…………ちょっと、面白いネタを拾ったもんで。」
「それって、今日来た牙琉ってお坊ちゃんの事?」
 簡単に茜に切り替えされ、法介はえっ?と声を上げた。
「茜さん、何で知って「アンタね。私は西洋仕込みの取材をする女よ、情報ぐらいあっという間に手に入るわ…というのは前置きで、実は私、御剣警部とちょっとした知り合いなのよね。」」
「御剣警部…!凄いじゃないですか!」
 感嘆の声を上げれば、茜が得意満面な表情で鼻を鳴らす。うふふと笑う彼女は、質問せずともベラベラと喋り始めるが、法介が聞いていたのは最初だけ、後は資料に目を戻し、相槌だけをうっていた。
「…という訳私は、米国に留学して化学知識を…ちょっと!」
「はい、聞いてますよ。うん、聞いてます。」
「嘘おっしゃい!」
 ぺしんと投げつけられたかりんとうが、法介のむき出しの額にあたって床へと落ちる。
「痛いじゃないですか!茜さん!!」
「痛くしてるのよ、当たり前じゃない!!」
 不条理だ。なんて理論の通らない行いだ。
「聞きなさいよ!
 牙琉伯爵は、怪盗から予告状が送られたにも係わらず警察を閉め出しているそうよ。海外から連れてきた得ないの知れない輩に警護をさせてるんですって。
 警察なんて頼りにならないって言ったらしくて、御剣警部憤慨してたわ。」
「…あの伯爵なら言いそうだけどね。」
「だから、盗賊が何を狙っているのかわからないらしくって…。「…どうせ、金じゃないですか? それはさておき、茜さん。」」
「なんで、置くのよ。」
 無理矢理叩き折られた話しの腰に、茜は大いに頬を膨らませた。
 子供のように頬をぷうと膨らませる様は、貴族の間で流行っているというペットのネズミによく似ていた。
 それでも機嫌を損なうのは得策とは言えない。法介は彼女の自尊心を擽るべく口を開いた。
「茜さんにしか聞けない事なんですよ。」
「…恋愛相談とか御免よ。それこそ、牙琉のお坊ちゃんにでも相談してよね。
お堅い兄と比べて、弟は浮き名を流す人間みたいよ。」
 恋愛相談、響也ときて、ドキリと心臓が痛んだのは謎…という事にしておこうと法介は思う。あの薔薇園での出来事も含めて、自分の行動は謎だ。
 思考を振り切るように、法介はぶんぶんと頭を左右に振った。
「いやいや、そうじゃなくて『化学』ですよ。」
 一瞬細められた茜の瞳は、彼女の口角が持ち上がると供に開かれていく。うふふふと機嫌の言い含み笑いが起きれば、法介は思惑通りに事が進んだのを感じた。
「アンタだいぶわかって来たじゃないの。で何?体内に残らない毒素とか、死亡時間を遅らせる方法?」
 …どうしてみんな殺人なのだろうかと首を捻り、法介は引きつった笑みを浮かべる。
「いやいや、個人を特定する化学的な方法って奴を捜してるんですよ。でも、そんな便利なものないですよね?」
「あるわよ。」
 事も無げに言い放ち、茜は自分の掌を法介に突き出した。
「この指先に小さな皺があるでしょ?これは個人によって全て違うものなの。それを用いて個人を特定する方法が確立されたのよ。指紋鑑定、最先端の化学だわ。」
「へぇ〜?こんなもんが?」
 スコットランドヤードだの、コナン・ドイルだのと有名どころの名前を叫ぶ茜を置いて、法介はしげしげと自分の手を眺める。
 思い出したのが、響也の肌だったとは、本気でどうかしているだろう。
「でも、それって具体的にどうすればいいんですか?」
「特定したい人間が触ったものに、こう粉を降りかけて出てきた指紋を重ねて比べるのよ。指紋さえとってきてくれれば、試験薬なら経費で買ってあるもの。」
「…。」
 いろいろとツッコミどころは満載の台詞だったけれど、法介は「わかりました」という言葉で留めた。
 そして、頭を捻る。
 今の牙琉伯爵から指紋を得る事は可能だろうが、欧州にいた時の彼のものを得るのはどうだろうか?過去に戻る訳にもいかないし…。
 とにかく、響也に相談してみるしかない。法介はその結論に至って、卓上電話機に手を伸ばした。密やかに手渡された交信番号を交換手に告げれば、彼女の声(交換手は女性にとって花形の職業なのだ)は牙琉邸に繋いだ事を報告する。
「もし、もし…?」
 呼び掛けても無音な事に、法介が疑問を頂くのと同時に叫び声が受話器から発せられた。
『今からそっち行く!こんな屋敷、出ていってやる!!!!』
 ぷちんと切れた電話を、あっけにとられて見つめる法介に、茜はどうしたのと聞いてくる。
 しかし、法介には答えるべく答えが見つからなかった。

 ◆ ◆ ◆

 幼い子供でもあるまいし、ましてや逢い引きしている訳でもない。
 法介は額を赤く染め上げながら、僅かばかりの抵抗を試みて、がっしりと握り込まれた指先を振る。
 しかし、響也の指は離れる事を許さず、それどころか、指先を絡める仕草で法介の手を掴んだ。そのまま長い脚で歩幅も広くズンズンと進んでいくものだから、法介は引き摺られ道を行く。 
 電話を置いてから半時を待たずして響也は出版社に現れた。事情を尋ねる法介に耳を貸す事もなく(いいから付き合って)と連れてこられたのが此処だ。

 この時刻に一層華やかさを増す街『吉原遊郭』

 煌びやかな衣装を纏った女郎達は、格子の向こうから艶のある仕草で男を誘う。
 そのど真ん中、男がふたり手を繋いで脇目も振らずに突き進む有様に好奇の目が注がれているのだ。
「ちょ、響也さん、一体…「…牙琉じゃねぇか」」
 ふいに掛けられた声に、響也の脚が止まる。前を見ていなかった法介は思い切りよく彼にぶち当たった。
 法介の額が響也の後頭部を強打して、お互いに頭を抱えてて座り込む。
「何するんだよ!おデコくん!!!」
 涙目で振り向いた響也に、法介は異議ありと声を張る。
「アンタが急に立ち止まるからでしょうが!!」
 ギャーギャーと言い合うふたりに、頭上から呆れた声が降ってきた。
「往来で喧しい奴等だな。喧嘩ならこっちでしろ、商売の邪魔だ。」
 長い黒髪を後ろで結わえ、女物の赤い襦袢を着流した伊達男が、面倒くさそうな表情で顎をしゃくった。
 示されたのは、居並ぶ遊廓の中でも際だった構えを持つ店。
 田舎から出てきた薄給の法介では一生敷居を跨ぐ事など叶わない場所だろう。店の名は、所属する花魁の名と共に知れ渡っているモノだ。
「ところで牙琉、なんだ、このちんけなガキは?」
 法介を一瞥するや、男はそう吐いた。響也と並べば背丈は殆ど差がなく、響也の肩に腕を廻す仕草は様になっていた。
 響也の昔なじみだろうか。意味ありげな視線はずっと響也に注がれている。場所が場所だけに、それなりの想像が法介の頭に膨らんだ。それと共に彼の腕を響也から振り払ってやりたい欲求も法介の中で大きくなる。
 男が響也の後ろ髪を撫でつける仕草に、一瞬理性が飛びそうになり、。
 それはそれで可笑しな事だったので、実際に行動に移さなかった自分に、後で胸を撫で下ろす事になる。響也はスルリと彼の腕を抜け出ると法介に背中から抱きつくと、男に向けて押し出した。
「彼はおデコくん。僕と逃避行中だよ。だからねぇ大庵、匿ってよ。」
 当然の様子で言い放つ響也に、大庵は眉根に深い皺を寄せる。法介の眉間にも勿論皺は寄っていた。

 どんな世界に、おデコくんって名前があるというのか!? 
 それにいつ自分が響也と逃避行をする事になった!?

「…久しぶりに逢ったってのに、それかよ。
 俺に会いに来てくれたのかと思ったのに、つれない奴だぜ。」
 チラと法介を見てから、ハァと大きく息を吐く。着物の袂に両腕を入れ胸元から腕を出して顎を掻いた。ちっと舌打ちをして、片目を眇める。
「どうせまた兄貴に反抗期だろ、わかった、わかった。入れてやるから入れよ。」
 仕方無いという様子で暖簾を潜ってから、大庵はいけねぇと振り返る。
「おい、牙琉。
 今日は見ての通り盛況でね、空いてる部屋は彼処だけだ。どうする?」
 意味深な言い回しで、響也に問いかける。響也は僅かい眉を歪めたが、口端を上げた。
「僕はかまわないよ。…そうだね。どうせだったら、久しぶりに念入りにいこうよ。」
 響也の答えが予想の範囲を遥に超えていたようで、大庵は細めていた目を大きく見開いた。声も出ない様子で立ち尽くす大庵に、女郎達が若旦那と口々に呼び掛ける。

「コイツがねぇ…?」

 響也と法介が暖簾を潜ると同時に、大庵の呟きが法介の耳を掠めた。





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